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合格者作品(映像系)

「私と映像(写真)」との関わりについて述べなさい。

私が写真を撮るのは、シャッターを押すことで被写体の「存在のあり方」を切り替えることができるからだ。

生物は、生きている限り動き続ける。血液は循環し、内蔵は血液を循環させるために働き続ける。生物にとって、止まることは死だ。植物だって、止まっているように見えるけれど、昨日より1ミリ伸びていたら、それはものすごくゆっくりでも、確かに動いているのだ。

つまり、私たちは、止まっている世界を見ることができないのだ。

しかし、シャッターを押して写真を撮ると、「動いている」という存在のあり方が切り替わる。動いている存在は、紙やディスプレイという媒体に定着させることで、「止まっている」存在にすることができる。

高校のモダンダンス部の舞台撮影をやったとき、私は「存在のあり方」をはじめて意識した。

始まりのブザーが鳴り響く。期待と高揚感と、少しの緊張で満ちた会場内は、一瞬の静寂の後に、ざわめきを増す。いよいよだ。ファインダーを覗き、右の人差し指をシャッターボタンにかける。暗闇に一筋の光が射す。その光は、ステージに横たわる1人の少女に向けられていた。

少女の身体は、何かに導かれているかのように、音もなく起き上がる。遥か遠く、届かない存在に向かって、少女の腕は伸ばされる。

私はその指先から目が離せなくなった。それでも、シャッターは押す。めまぐるしく舞台は展開されていく。部員全員でのユニゾンは大迫力、照明の演出と相まって鳥肌が立つ。それでも私はなお、指先から目を離せずにいた。指先が魅せる表情の多彩さに、圧倒され続けた。あっという間に、1時間の公演は幕を閉じる。

家に帰り、撮った写真を見返してみて、ふと思った。カメラを持っていなかったら、肉眼で見ているだけだったら、指先に圧倒されることなんてなかったかもしれない。それは、ただ単に流れ過ぎ去っていく振りつけの一部でしかないのだ。それがファインダーを覗き、シャッターを押して止めることで、指先が魅せる一瞬の表情が初めて見えてきたのである。

自分の視野を限定するものが何もない肉眼の状態では、どうしても、見ているつもりのないものまで視界に入ってしまう。ファインダーを覗くという行為は、自分の視界にフレームを作り、フレームの外のものを意図的に排除することであると同時に、フレームの中のものを浮かび上がらせることである。そのことに気がついた。

それからは、何か公演があると聞くたびに、カメラを持って駆けつけるようになった。以前は様々なテクニックを駆使することを表現の中心としていたのだが、そのことに気付いてからは、撮影手法を絞り込んで「存在のあり方」を表現することに集中することができるようになった。

しかし、学校行事の撮影を積極的に行う一方で、私は家族を撮りたいとは思っていなかった。

「配られたカードで勝負するっきゃないのさ......それがどういう意味であれ」  スヌーピーは言った。

私は、どうやって配られたカードを受け入れていったらいいのだろう。

家族の個性とは一体何なのだ。父と母という2つの個性が合わさって夫婦になり、2人は家族のあり方や子育ての方針を2人なりに決めていく。だから家族の中では基本的に閉じられたルールが作られてしまい、その閉じられたルールが、子どもにも適用される。

我が家のルールは、斬新な個性を重視するようなものではなく、女はいい嫁に、男はいいところに就職、といった世間体を意識したものでしかない。何かにつけて、「女なんだから〜」「女らしく〜」。

それが私にとっての配られたカードだったのだ。

世間体を気にせず、子どもはのびのびと個性豊かに育てられているように見えて、実は家族というのは個性よりも男女の性差を育てているように、実感として思われてならない。親が見ているのは、子供がどういう個性を持った子供なのか、ではなく、私に配られた、「娘」という性別カードなのだ。

そもそも私は、父母や周囲の環境といった、自分にあらかじめ配られたカードを、受け入れられていない。

しかし、ある時映画「家族ゲーム」を見て、配られたカードを消す方法は実は存在するのではないか、と思った。

「家族ゲーム」には、家族のことを考えて向き合っているふりをしながら向き合おうとせず、表面だけでかろうじてつながっている、ある意味典型的な家族像が、一歩引いた目線から描かれている。この一歩引いた目線というのは、カメラを通すことで生まれ、それによって当たり前のことでも奇妙さが増したりする。

だから私は、家族をカメラを通して見ることにした。

自分の家族をカメラを通して見たら、一体どうなる?配られたカードは果たして消えるのだろうか?気になって仕方がなかったので、見終わった直後にはもうカメラを構えていた。ファインダーを覗くと、そこにいたのは、口うるさく「女らしく〜」と言う私の母ではない、単なる1人の人間だった。

カメラという機械を介した時点で母と私の関係は、母と娘から、被写体と撮影者に変わる。その日も同じように私は母に対して苛々していたけれど、その苛々も、被写体への興味にすり替わってしまったのだった。

この時、配られたカードは消えていた。そしてシャッターを押すと、1人の人間というカードに書き換わった。写真を撮るという行為は、配られたカードを消して書き換える、つまりフラットな視点を得て自分なりに解釈し直す、ということでもあるのだ。

写真は、「存在のあり方」を切り替えることができるのである。

そうはいっても、写真を撮影すること自体で、被写体に直接影響を及ぼせるわけではない。私は、「存在のあり方」自体を変えるのではなく、「存在のあり方」の認識を変えたいのだ。

ただし、「有る・無い」「生きている・死んでいる」二元論的な切り替えを、望んではいない。

そもそも、はっきり分けられるはずがないじゃないか、と、そう思っているのだ。

だから、花の写真を撮ってみた。最初はきれいだった花がだんだん枯れていく様を、2週間に渡って取り続けた。数百枚を撮り続けたその写真を見比べた時、私は思った。

「......どこから、『枯れて』きたんだろう?」

まだその答えは見つけ出せていない。だから、この先もずっと、写真を撮り続けていきたいと思っている。


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