現代人に足りないもの「厳しさ」のない社会環境が、人間を駄目にする。例えば自分の目の前にいる相手とはもう二度と会えないのかもしれないと思う時には、一緒にいる時間を最高のものに高めようとしてお互いに思いやるのではないだろうか。もう二度と会えないという気持ちで、今この瞬間を最高のものにしようとする。一期一会の心境というやつだ。 クラシック音楽の世界において1920年代には、最高と呼べる指揮者が数多くいたそうである。この時代には録音機材もなく、本気で指揮者になることを志す人間は、自分の接することができるコンサートのひとつひとつと真剣に向き合い、少しでも自分の指揮に活かせるものを学び取れるように、真剣に音楽に耳を傾けたということだ。 振り返って現代では、たとえ1回のコンサートを聞き逃したところで、CDもある、ビデオもある、後で確認できるということで、ひとつひとつのコンサートに接する際の真剣味が無意識のうちに薄れてしまっている。 落語家においても、昔は師匠は弟子に対してたった3回しか稽古をしてやらなかったのである。封建的な感覚の支配する落語界のこと、弟子は師匠に逆らうことはできず、たった3回しかつけてもらえない稽古に、真剣に接したことだろう。 ちなみに、今はそのような慣習も薄れ、稽古の際に録音機材を持ち込むことも当たり前だし、大体、探せばいくらでも落語の録音音源などは購入することができる。しかし、落語界は現在、「今後名人は生まれないだろう」と言われてしまうほどレベルが低下しているようだ。資料にできる音源や書籍も多いこの時代に、これはおかしいことだと思わないだろうか? 理由は単純である。一期一会の精神が足りないのだ。音楽においても、落語においても、あるいは他の世界においても、ひとつのことが駄目だったら、他のことに移ることができてしまうほど、現在の世の中に情報とモノが溢れすぎているのである。 例えば戦時中、食料も無い、絵の具も無い、世間からは非国民と言われ、役立たずと言われ、それでも絵を描かずにはいられなかった芸術家たちがたくさんいたはずである。抑圧されながら、入手困難だったり、残りの少なくなった画材を最大限に活かそうとして工夫を重ね、苦しみながらも、それでも絵を描くことを止められなかったほど「空白を埋めようとしてきた人たち」。 そんな芸術家たちに、現代の、下手をすれば、「これはアートだ」と宣言すればどのようなものでもアートとして一般に取り扱われてしまうような時代(アートとしての正当な評価を受けるかどうかは、全くの別問題だ)の、「かっこいいから」アートをやるような人たちが、追いつくことができるのだろうか。 現代においては、素晴らしい本質を持ったものが圧倒的な情報量を元にして生み出される可能性も高まっているが、実のところ、それ以外の大部分はかなり質が悪いものに占められてしまっている。あるいは、情報量が多い分だけ、ただ単にそれを組み合わせてしまえば、それなりに見栄えのするものが作れてしまうのだが、それは「あたりさわりがなく」、結局は使い捨てで終わってしまうレベルのものなのである。 今から数十年後。自分の作り出したものは、果たして、残っているのだろうか。自分は、数十年残り続けることができるような素晴らしい本質を持ったものを、作り出すことができるのだろうか。一度作り出したら、もう、二度と作り出せないかもしれない。この作品を作り終えた後には、たとえ死んでしまっても後悔はしない。それほどの真剣味を持って、何かを作り出すことができるのだろうか。
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