映像としての存在意義数年前に多摩美術大学の芸術祭に行った時、某テレビ局の美術系バラエティ番組が中央舞台にて収録を行っていた。多摩美術大学の学生が作った作品の中から数点を選んで、審査員が点数をつけて競わせるという企画があったのだ。そこに出てきた作品の中で、ただ海岸で延々と穴を掘り続けている映像を固定カメラで長々と移したもので、正直、何の面白みもない映像作品があった。 その映像を見た審査員は最初軒並み低い点数をつけた。半ば失笑ぎみに司会役が「これはいったいどういう意図で…」などとその作品を作った学生に舞台の上でインタビューをしたのだが、こういう答えが帰ってきた(以下、完全に記憶に基づくインタビューの概要)。 「数年前に母が死んだ時、僕はその骨を埋めるための穴を掘らなければいけなかったんです。それで、穴を掘っている時に色々考えることがあったので、今回この映像を取りました…」 その後もう一回評決を取り直したら、その学生の固定カメラで延々と穴掘りを移し続けただけの映像はなんと最高点をとってしまったのである。「母の死」という言葉を持ち出した瞬間、明らかにあの場の空気の流れが変わってしまっていたのだ。おそらくあの場にいたどの審査員も、「これは良い点つけてやらねばならんだろう」と思ってしまったことだろう。 しかし、私は思うのだ。言葉で説明しなければ意図が伝わらない(素晴らしさがわからない)ような映像作品は、たとえその言葉の説明部分が優れていても、映像としては完全に負けてしまっている。言葉で説明できてしまうなら、何も映像を撮る必要はない。言葉で言えばいいだけのことだ。言葉で説明する以上の効果を映像という表現手法によって与えることができて始めて、映像は映像としての存在意義を持つのではないのだろうか。 人の死は、確かに厳粛に受け止めるべきである。テレビの公開録画ということもあり、審査員や司会者は、視聴者へのパフォーマンスもあって、「母の死」をからめたあの作品に高得点をつけたのであろう。しかし、私は納得できない。仮にも映像作品として出品したのだから、よけいな言葉で説明をつけざるを得ないような映像は、撮るべきではない。 その学生は大学では映像を専攻しているというわけではなかったようだが、専門家ではないからしょうがない、などという言い訳は通用しない。作品を作っている限りは作家とみなされて然るべきだし(たとえ「卵」だったとしても)、自分の作るものに関してはこだわりと責任を持つべきである。親が自分の生んだ子供に対して責任を持たなければならないのと同じように。 しかし、同じようなことを、プロの作家、しかも、実績も名声も兼ね備えた映画監督の作品で、その数年後に、また感じることとなってしまった。 それは、大林宣彦監督の映画「理由」(宮部みゆき原作)である。この映画、最初の場面でおそらく宮部みゆきの原作小説から引用されたと思われる荒川区、江戸川区についての引用文が画面上に流れるのだが、これが実に長い。ナレーションが入ることなく、初っぱなから延々と文章を読まされるわけで、映画(映像表現)を観るつもりで席に座った私は正直、最初から幻滅してしまった。 映像表現として許容される範囲を逸脱する程長い(背景画像自体はコラージュ的に映されているのだが)文章をスクリーン上で読むくらいなら、最初から小説を読んだ方がよっぽど良い。もし大林監督がこのことに対する言い訳として「宮部みゆきさんの文章をそのまま活かしたかった」などと言うのだとしたら、それはそのまま映像作家として「私は宮部みゆきの文章以上の映像表現は撮れませんでした」と告白することに他ならないと、私は思っている。 せっかく実績と名声のある監督なのだ。私は大林宣彦監督にしかできない、「宮部みゆきの文章を超える」映像表現を見たかった。安易に小説の引用文を長々しく使用してしまったことが、非常に残念だった。
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