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世界を切り取る

Art Tatum(アート テイタム) というジャズピアニストがいる。盲目である。もうとっくに亡くなっているのだが、未だにジャズピアニストの最高峰として語り継がれている存在である。幸い、音源がいくつか残っているので、聴いてみるといい。まさに最高峰だ。Count Basie であったか、ピアノ演奏をしているときに客席に Art Tatum がいることを知り、こう言ったそうだ「私は素晴らしいピアノ演奏をしているつもりだが、今日、この場所にはピアノ演奏の神がいます」と。

盲目である Art Tatum の生きていた世界は、光のない、音だけの世界である。空気のふるえ(=音)によって自分の周りを取り巻く世界の全てを認識していた Art Tatum が、空気のふるえの邪魔をする光を認識してしまう「目の見える人」には辿り着けない音の境地に立てるのは、ある意味で当然のことだ。

私はハンディキャップを持った人間を哀まない。哀れみとは強い人間の、弱い人間に対する心の余裕と差を表すという側面も持っているからだ。私は他人を哀れむことで、自分が優位に立とうとは、思わない。もちろん、これには異論があろうが。

ハンディキャップを持った人間が苦しい生活を送っているのは、彼らが弱いからではなく、この世の中が「普通の人(健常者)」の為に作られているからだ、と、考えてみてはどうであろうか(もちろん、ハンディキャップの程度や性質にもよるが…)。ワイドショーや新聞記事で犯罪の報道を見て、「いやあね、あんな人」と感想を漏らし、「私は普通の人間なのよ」と自己の再確認をしているのが、日本の報道の持つ一側面でもある(ワイドショーが真の報道であるかどうか、という議論は抜きにしておいて)が、そういった「普通」というある種の幻想が世の中を支配し、そこから漏れてしまう人たちは、そのギャップに苦しんでいる、と。

私にとっては、自分も、目の見えない人も、耳の聞こえない人も、その他たくさんの人たちも、すべて同格の存在だ。目の見えない人が感じ取れる世界を、私は知ることができない。たぶん私よりも豊かな音の世界の中にいるはずだ。耳の聞こえない人たちが見る世界は、私にはわからない。多分私には見えないものを、彼らは見ることができるのだろう。私の知らない世界を知っている人間は、私にとっては全て接する価値のある人間だ。

その意味では、全ての人間には存在価値があり、それは私にとって「哀れむ」対象ではない。私は自分より弱い人間(存在)を意図的に作り出すことで、自分の強さを確認したいとは思わない。江戸時代の身分制を見るがいい(士農工商以外の部分も含めて、の話だ)。人間が社会を形成してゆく中で、「自分より弱い存在」を意図的に作り出し、それを差別し、優越感を覚えてきた醜い精神構造が見えてくるはずである。

ただし、人間は根本的にあらゆる物事に線引きをしながら生きていく存在である。世の中に存在している全員が、世の中に存在している全ての事象を受け入れるのは不可能であり、線引きをしながら存在してゆく以上、優越感や差別、哀れみという心の余裕は無くならないのかもしれない。

そうやって世の中を「切り取り」、差別化することで、世界中に様々な文化が存在している。美術も、文学も、音楽も、その本質は世界を「切り取る」ことだ。あとはそれが、色と形なのか、文字と言葉なのか、空気のふるえなのかのという、ただそれだけの違いだ。

私が普段接している美術業界は、視覚的に「切り取る」ことを生き方とする人たちの集団である。しかし私は、世界を「切り取る」ことの有効性よりも、その限界に注目してしまうことがある。しかし限界を覚えながらも、私も人間である以上は切り取る存在であることがあたりまえのことなので、少なくとも、私は自分が人間らしくあり続けるために、次々と世界を切り取っていく。

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