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      <title>エースアートアカデミー</title>
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      <description>美大受験予備校勤務。美大受験の英語／小論文を指導する講師の日常と思い。メールと対面で推薦入学試験／AO入試、社会人入試、編入学試験などの特別入試の小論文指導実績も豊富。</description>
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         <title>芸大を出たら待ち受けるもの</title>
         <description><![CDATA[<div align="center"><object width="480" height="385"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/DFS7PT6BpwU&hl=ja_JP&fs=1&"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/DFS7PT6BpwU&hl=ja_JP&fs=1&" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="480" height="385"></embed></object></div>

芸大を出たら待ち受けるもの 

<a href="http://japan.digitaldj-network.com/archives/51608674.html">http://japan.digitaldj-network.com/archives/51608674.html </a>

芸術というのは、社会の中で持つ価値が大いに低い、と、多くの人に思われてしまっている。多くの職業が「社会の役に立つ」ことが前提で成立している（少なくとも、建前としては。ここ数十年は、広告によって「社会の役に立つ」と思わせてきたものも多い）。しかし、近代の芸術は自己の内面を追求していくことがもっとも重要な要素となっており、根本的な部分で、「社会の役に立つ」ことから分離してしまっている。 

現代日本では、大部分の人たちが、「社会の役に立つ」ために、自分自身をなんらかの犠牲にしながら労働をしている。自分のために使うことのできる時間などほとんど無い状態だ。朝から晩まで仕事をしていれば、「趣味」に費やす時間も余力もどんどんなくなってくる。そんな人間が大半の世の中で、「自分の考えていることを表現する」という考え方自体が、根本的に非常に我が侭に見えてしまうのである。 

私自身美術の世界にもう10年以上いるが、美術の世界の中で生きている人間は、本当に、自分のことしか考えられていないことがかなり多い。社会のこと、つまり、自分以外のみんながどのような生活を送り、この社会がどのような流れで進んでいるのかということに、ほとんど注目しようとしない。中には、自分の作品を大切にする一方で、他人の作品を粗末に扱うあきれた奴もいる。 

美術の世界というのは、芸能人の世界と同じで、自分自身の魅力を高めることで社会（他の人）に注目してもらい、そこから生じる希少価値を配分されることで食いつないでいく世界だ。本来が、「大学」といったような、社会的な機関で要請されるべきものじゃない。 

自分自身がどれだけ強くいられるか、で、その人の「アーティスト」としての価値が決まってくるのに、「国（＝社会）が美術／芸術大学に金を使う」ということ自体が本来はおかしい。芸能人養成所を国が作ったら、一般人がそれに納得するとでも思うのだろうか？ 

ただし、そのような「芸術が社会の役に立っていない」と思わせてしまう状況を作り出しているのは、その世界の中にいる人間（つまり、アーティストやデザイナーなど）自身の責任であり、「芸術＝社会の役に立たない」というのは、少し違う。 

色と形に関しての価値を最大に高められる人間は、常に大きな魅力を持ち合わせている。しかし、社会を構成する数多くの人間に対してその魅力と価値を伝えることができていないのだとしたら、その原因は、魅力と価値を伝えることができない作品しか作ってこなかった「人」にある。 

美術が社会的に持ち合わせている価値が低いのではなく、美術が本来持ち合わせている大きな価値を、「人」が、貶めてしまったのだ。 

人類が今まで百年単位で築き上げてきた価値観のうちの一つが、大きく変化しようとしている。アメリカは衰退し、ギリシャは崩壊し、スペインやポルトガルが更なる崩壊の引き金を引くのではないかとEU全体が怯え、中国は築き上げた建前に中身が伴わないことに悶々とし、日本は政治と経済の閉塞感に疲れ切ってしまっている。 

今、社会全体に余裕がない。そんな時代に、社会の大多数の人間（美術に携わらない人間）に対して、美術の世界が大きな魅力と価値を認めさせていくことができないのだとしたら、社会全体が、美術の世界に背を向けてしまうかもしれない。それを防ぐためには、美術に携わる人間が、社会に頼り切りになるのではなく、自らその価値と魅力をアピールし、社会に自分たちの価値を認めさせるだけの力を、つけていかなければならない。]]></description>
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         <pubDate>Tue, 01 Jun 2010 11:13:28 +0900</pubDate>
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         <title>美術／音楽に関わるあらゆる人たちへ</title>
         <description>先日、武蔵野美術大学芸術文化科（＊略称芸文）の学生から、取材を受けました。出来上がってきた文章をみたら、自分が現在の仕事をはじめてから今までの13年間で培ってきた考え方の根幹部分がよくまとまっているということに気づいたので、アップします。取材内容は美術に関わるものですが、音楽やその他の分野に関しても全く同じ視点でいますので、そのつもりで読んでいただければ、と思います。

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『みりょくてき且つ、たくましく在ること。そしてよのなかを見る。』

・ビジネスの世界への違和感。

−まず始めに、どのようないきさつで美大予備校でお仕事をなさることになったのか知りたいです。

「大学４年の４月末くらいに大学でアルバイトの掲示を見たのがきっかけ。それまで一般の予備校で教えてたりしたしね。美術に特別な思い入れがあったわけではなくて。音楽はやっていたから、自分を表現するってことに興味はあったけど。
自分は就職活動に現実味を感じなくて、全くしなかった。ビジネスの世界に違和感しか感じなかったから。それもあって、ここ（学院）、ビジネスと違う業界で１年やったから、じゃあやってみようかと卒業時に勤めることになってね。」

−ビジネスの世界への違和感の答えが得られると思ったからですか？

「うーん、ビジネスはお金の流れで出来ているじゃない？去年の暮れごろにサブプライム・ローン問題で急激に景気が悪くなったように、バブルは絶対あるっていうのが見えていて。実体のないお金だけが動いてしまって、地に足が着いていないというか。
全員がそうではないけど、こっち（美術業界） にいる人は正直（作品などを）お金にするのがものすごく下手な人たちだったりするわけ。だけど、お金じゃないとこで価値を見出して、何かを進めていこうとする人たちであって。だから（アルバイトを始めてから）、こういう世界もあるのかという驚きもあったけど、ビジネスも教師の世界もだめならこっちにきてみるかという形で、全然こちら側に来ることに違和感はなかった。」

・素材を最大限に生かす。

−印象に残っていたり、何か自分に特別な意味のある芸術作品というのは？

「基本的に他の人の作品に興味がなくて、自分が吸収できるかどうかという部分でしか見ないからなぁ。でも、明らかに他の人と違うことをやってる人は気になるよね。
例えば、彼にしかないリズム感で演奏するジャズピアニストのマル・ウォルドロン。時代の流れを完全に無視して具象に徹した。ベルナール・ビュフェ。迷いがないすごい強い線で、すごく好き。自発的に美術館には行かないけど、彼のだけは唯一自ら美術館に行ったね。
たぶん自分は、美術の業界を目指している人たちが感動するところでは作品をみてないんだよね。」

−その視点を知りたいです。

「まずね、正直テクニック的なものは時間をかければ手に入れる事は可能だと思っているから、技術というところでは驚かない。職人さんみたいに、とても自分はここまでいけないな、という人は好きなんだけど。テクニック自体を否定するわけではないよ。
自分にとって芸術がどういうものかというと、人間が自分自身の限界に達するための試行錯誤をしてるかどうかだと思ってるの。だから視覚的に美しい素晴らしいだけではないと思ってて、会社経営とかも芸術のひとつだと思ってるし、芸術的に子育てをする人だっていると思ってる。他の人には絶対できないようなの。そういうところに注目してる。
そういう、人間がかかわる営みってあらゆる芸術的側面があると思う。だから、ほかの人ができない人間の限界を超えるようなレベルまで行ってる人には単純に尊敬するよね。」

−たとえば誰ですかね。

「追求できてるかって言ったらどうだろう...今はコピーしやすい時代だから、感動するものはないかも。
芸術をどう位置づけているかって言うと、素材を最大限に生かすものってことだと思う。それは美術でいうと画材やモティーフだったりするんだけど、その生かし方が視点ごとにあるわけよ。俺の仕事も、生徒一人一人をどう生かすかで勝負をするわけで。経済が急速に収縮してる余裕のない今だからこそ、素材の持ってるものを生かすということをしていかないと。環境や資源的にも余裕がないしね。」

−素材を生かすとは？

「今自分がやってること、関わっていること、時間をかけてることが、どれだけの価値を生み出すのか、最大限の価値を生み出すには何をしたらいいかを考え実行しながら、大学生活もそうだし、この先の人生をおくること。そうしていかないと、多分何をしててもだめだとおもうのね。
　時間の割り振り方とかも、一言で言うと一期一会。それを人だけではなく、時間や行動に対してやれるかどうか。今授業を受けてるとして、どういうふうにしたらその時間を最高に使えるのか。そこらへんを常に賢く考えていかないと、特に今みたいな余裕のない時代は、助けてくれる余裕のある人がいないから。」

−つぶれていっちゃいまいますよねぇ．．．。

「そうそう、自分がね。」

・素材を生かすことは、魅力につながる。

「美術関係の知り合いで、サブプライム問題の影響で取引きを切られた人とかいるけど、そういう人って結局素材（本人）に魅力がなかったってことでしょう？でも魅力がある人は残る。美大に入ったら入ったで、その後自分を素材として考えて魅力を高めていって、余裕がなくなってる時代でも自分は必要な人間だと思わせる努力は絶対必要なんだよ。
　美術の人って少数派だから、多数決で負けるのよ。でも少数派が負けないときがあって、それはやっぱり魅力的な何かがあって、それをみんなが認めてくれるとき。それだけの魅力が、美術業界にいる一人として自分は持ってるか、ということだと思うのね。」

−魅力を。

「そうそう。美術の世界と全然関係ない人から自分を見られたときに、美術業界ってこういう人がいる世界なんだって思われるわけよ。そういうときに相手をがっかりさせたり見下させないだけの何かを持ってれば、やっぱりそれは自分にとっても美術業界にとっても一般にとっても大きくプラスでしょ。でももしそれが逆だったら、全部にマイナスなんだよ。だったらプラスのほうがいいじゃんってお話。」

−魅力的になるためにしていたことは？

「人と同じことをしないってことはずっとやってきたよね。ムサ院でも、おそらく歴代の学科講師の中で唯一、積極的に生徒に混じって制作やデッサンしてたし。それは教える相手とのギャップを乗り越えたいというのもあったけどね。
同じことをやるんだったら人の何倍もやる。卒論は４００字詰め１００枚が普通だけど、俺は７００枚が目標で。実際は３００枚までだったけど、これだけ書いたら文句はつけられないでしょ。３人分の働きをしたわけだから。
要するに、他の人と同じ事をするんだったらそれくらいやる。他の人がしないようなことをしないと、自分がなんで生きているのか分からない。」

−そうですよね、人と同じってことは、自分でなくてもできるってことですからね。

「そうそうそうそう。ここでテキストのデザインとかも全部自分でやったこともそうだし。あと、物事を長くやって慣れてできた余力を、必ずどこかにふりむけるってことをやってて。そのときにも他の人がやらないことをやろうという形で。」

−他の人と同じことをしないというのと、するのなら何倍もするというのに、重きをおいていたのですね。

「そうだね。自分の生活も含め生き方のあらゆる部分に自分という素材がいるわけだから、それを最大限に生かして、日本だけでも何億っていう人がいる社会においたときに、立っていられる状態にしておかなければいけないんだよ。」

・たくましさ。

−社会に出たら、立っていられないことがあるってことですよね。

「まあそうだよね。本当は、アートをやる人っていうのは自分に強くなきゃいけない。
とにかく、今の大学生の人にはたくましくなって欲しい。今は民主主義で多数決の時代だけど、社会で一番多いのは老人。ということは、若い人のことを老人が決めているってことなんだよ。おかしいけどね。学生の、子どもでも社会人でもないという境目だからこそ許されることもあるよ。バイトだからミスも許してもらえたり。環境を利用してたくましくなって。豊かなのも若い人じゃないから。」

--たくましさとは具体的にどんな？

「単純にね、自立した生活ができるかどうかだと思うよ。自分で金を稼ぐかどうかでもあるんだけど、誰かに援助してもらうんじゃなくて、自分で回していく強さ。」

−自分で管理して、やりたいことやって。

「そうそうだって本来芸術の世界ってそういうものでしょ。全部自分の考えてることを外に出したいからこの世界にいるわけじゃん。それって他人にやってもらうんじゃなくて自分でやるしかない。それを作品に対してやってる人もいるけど、生活についてもやるべきなんだよ、本当は。」

・芸文生に向けて一言。

−最後に一言、芸文生に向けて一言お願いします。

「歯に衣を着せない言い方をすると、芸文てというのは美大の中でも低く見られがちだと思うんだよ、間違いなく。」

−作ってないですからね．．．。

「うん、でも今までは豊かな時代だったからその余力で作品は売れていたけど、これからは違い、多くのアーティストと呼ばれる人達があぶれる。そういうときに一般社会とのパイプをつくり、作品を価値のあるものとして認識させることができる立場にあるのが芸文で教わっている人達。そして今の１年生が社会人になって何年もした後には(芸文の評価が低い今の)状況が変わってくる可能性はあるし、その状況を異なる状態にするのが芸文生だよっていう。
ものづくりをしていなくても、いろんな価値を作り出していく。」

−変えていけ、と(笑)

「そういうことだよ。
この不安定の時代をいい機会だとも思ってる。ものづくりで価値のないものを作ってる人達が淘汰される。その中で芸文の人が、価値のあるものを作ってる人達をきちんと拾い上げているというのが伝われば、評価も変わってくると思う。
　ただ学芸員というだけではなくて、もっと法律とか経営の側から攻められる人が養成されて欲しいと自分は思うよ。」

−パイプ役で。

「パイプ役で。法律をやってる人で、美術が好きでも、その価値を見抜いて分かった上で好きな人というのは少ないと思う。だから作品をきちんと見て、法律面でもサポートしてくれる人が美術界にいるだけで価値があるんだよ。例えば著作権の問題で力になれたりね。
一般大学での美術というのはやっぱり一般論だから、知識とかでものを見てしまう。その中で、きちんと感性でみて、つなげる人がいれば、もっともっと美術業界は役に立つものとしてアピールできるから。逆にそれがなければ、この先はきついだろうと思ってる。

だからそのために、世の中をちゃんと見て、感じて欲しい。

大きな流れを無視しない。政治とか経済も大切でさ、自分がやってることに対して、影響を与えるものだと思ってみる。

それからさっきも言ったけど、高齢者が社会の多数を占めているという事実も注意して欲しい。インターネットの情報技術を無視はできないけど、その世界を理解していない人が年配の方には多い。だから、学生の人たちが自己責任で培っていかなければいけない。自分から積極的に関わらなければいけないしね。今は過渡期だから、２、３年たてば今の情報はすぐに時代遅れになる。常に自分できちんと情報を取り入れて、上手く利用する。年齢が上の人達には分からない感覚を自分で補うことをして欲しいよね。」

−なるほど。
　本日はお忙しいところを、ありがとうございました。

　(２００９年５月２６日取材)

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         <pubDate>Wed, 15 Jul 2009 09:57:25 +0900</pubDate>
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         <title>「完成」のうすっぺらさ</title>
         <description>原始人類のアートはなんだろうと考えた場合、現存するものの中で一番古い「絵画」として双璧をなしているのは、フランスのラスコーの洞窟壁画と、スペインのアルタミラの洞窟壁画であろう。

そこに描かれているのは、いずれも１万数千年前の旧石器時代後期の「人間」によって描かれた、主に動物を中心としたモチーフである。当時の生活で容易に手に入るものだったと思われる土や木の炭などの固体をあるいは粉末を、獣脂や血などの液体と混ぜ合わせることで顔料を作り出し、それを壁面に直接塗り付けることで、絵画を制作したものと思われている。

１万年以上前の洞窟壁画が現存している理由は、それらが洞窟のはるか奥に描かれていたからであった。天候や温度の変化、光による顔料の変質や退色の発生しない位置に描かれているからこそ、鮮やかな発色が保たれ、一万数千年以上後の人間たちが、それを「絵画」として鑑賞することが可能となったのである。

しかしラスコーの洞窟壁画は、現在は鑑賞することが出来ない。理由は、観客の吐く二酸化炭素で洞窟内の空気の状態が変化し、画面の劣化が始まってしまったからである。また、空調設備を導入したことによりカビも発生もしてしまっている。これは、長年人間のアクセスがなかった場所に人間がアクセスしたことで発生する、当然の結果だと言えよう。日本でも、奈良県の高松塚古墳の劣化問題が、記憶に新しいところである。

つまり、この大きな歴史的価値のある「絵画」がその歴史的価値を保ったままで存在し続けるためには、けっして発見されず、人の目に触れない状態に置かれることが必要だったというわけである。

たしかに、作品の劣化との闘いは、美術館職員など、作品を所蔵し保管する側の人間にとっては、日常的なことである。温度管理や湿度管理などに細心の注意を払うのは当たり前のこと。色彩は光でも劣化をするので、光に当てて鑑賞することすら、本当は作品にとっては悪い影響を与えてしまうのである。絵画を保管するためになされている努力の大きさは忘れられがちであるが、神経をすり減らすような努力の上に、それは成り立っているのである。

制作した作品が「完成した」時点で、制作者にとっての闘いはひとつの区切りを迎えるのかもしれない。しかし、制作された作品にとっては、その作品が「公開」され、光と空気にさらされるようになってから、「劣化」との闘いが始まるのである。作品は「完成」などしない。制作者が勝手に、完成した、と思い込んでいるだけの話なのだ。

だから作品を少しでも良い状態で長くこの世に存在させたいと思うのなら、あなたはその作品を暗闇に閉ざし、温度や湿度の変化から隔絶し、外界から遮断して人に見せるべきではない。そうすれば、あなたの作品は光や温度の影響から逃れ、うまくいけば数千年から数万年の間、同じ状態を保つことが出来るであろう。

しかし、自分の作品を光の中に置き、様々な人たちの目に触れさせたいと思うのなら、変質のリスクを承知の上でそれをするべきである。展示場の照明や、鑑賞者のはく二酸化炭素によって、制作者によって固定されたように思われた画面は、どんどん変質していくのである。それはまるで、陶器などの工芸品が使われることによって、長い時間をかけて「味」を獲得していくのと同じようなものである。

作品は、自分ひとりの力で存在し続けるわけではないのである。「完成」した後は、それが展示される場所や、そこに来た人たちがその作品に干渉し、作品は常に変化し続けるのである。</description>
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         <pubDate>Thu, 28 May 2009 09:34:52 +0900</pubDate>
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         <title>画家的サラリーマン感覚</title>
         <description>知り合いにテレビで使用される油彩画の作品などを請け負って制作している人がいるのだが、その人より小耳に挟んだ話。

あるドラマの撮影で使用される油彩画を頼まれた、というのだが、描いている途中経過を表してほしい、ということで、画面の半分に描画し、画面の半分を白地のままに残すことを要求されたという。

これは、ブラウザでファイルサイズの大きな画像を読み込むときの感覚である。コンピューターは基本的には言語で構成されているものなので、例えば JPEG などの画像（ラスターイメージ）を読み込む時には、まるで文章を読んでいくように、左上から右下にかけて読み込んでいくわけだ（実際にはそのような読み込み方をしない画像の在り方も存在する（ベクターイメージ）が、それを読み込むためには、ブラウザではなく、表示・描画のためのグラフィックソフトが必要になる）。

だから、上半分に画像が表示され、下半分が全くの白紙状態になっている、という状況が発生しうる。

しかし、実際に油彩画を書く際に、「半分描いて半分白紙」などという描き方をする画家はいないだろう。書き方の方法は画家によって千差万別だが、概ね、画面全体を少しずつ描画していき、完成のイメージに向かって画面を少しずつ引き締めていく、というやり方だ。感覚としては、いわゆるプログレッシブJPEGやインターレースGIF（最初はぼんやりした画像が現れ、次第に画像が鮮明になってくる）のイメージに近い。

このことは、絵の書き方を知らない人間がそのドラマの撮影（や撮影の進行管理）を担当しているからこそ起こったことであるが、視聴者へのわかりやすさ、という意味においては、あながち間違っていないやり方、と言えるかもしれない。

視聴者のほとんどは絵を描かない人か、絵を自己表現として描こうとはしない人だろうから、プログレッシブJPEGのような「最初はぼんやりした画像が現れ、次第に画像が鮮明になってくる」方法を採用して、画家の本来の描画手法を採用するよりも、「画面の半分に描画し、画面の半分を白地のまま」の方が「ああ、未完成なんだな」という印象を持ってもらえるだろう。

なにしろ、現代のアートは、色と形を「写真のように描く」という頸城からは既に脱しているのだ。大雑把な構成のみを描画した段階の絵をテレビ画面で見せられても、「ああ、こういう絵なんだな」としか、思わないだろう。

これを残念なことと思うか、表現としてはそれが適切だと思うか...。

「最初はぼんやりした画像が現れ、次第に画像が鮮明になってくる」途中経過の表し方は、画家としては正しいが、映像作家としては正しくはない。

「画面の半分に描画し、画面の半分を白地のまま」の途中経過の表し方は、画家としては間違っているが、映像作家としては正しい。

さて、私はどちらの立場に立つのか、だが。

私は「画家としては間違っているが、映像作家としては正しい」側に賛成する。これはなんといっても、テレビドラマ、なのだから。

今回の件で、画家としては疑問に思うような描かされ方をしたのかもしれない。しかし、ギャラリーなどで同じ絵を販売しようと思った時に、自分の絵が売れるかどうかの不確実性への期待と不安に戦々恐々とする状態に比べれば、確実にお金をもらえる仕事をした、という意味では、自分の意のままにならないことがあることは、当たり前のことだろう。

ひとこと書き添えておくと、彼は、安定している、とはいえないにしろ、お金を確実にもらえる（昨今の経済失速で色々怪しくはなっているが）仕事をする、ということがアーティストに撮ってどれだけ難しいことかがわからないような画家ではない。彼は今回の作品でなにがしかのお金をもらったはずだが、それは「がまん代」なのだと、もちろん、彼はわかっているはずだ。

ただ、それでも、言いたくなってしまうものだろう。それは、サラリーマンがいつだって仕事上の愚痴を言いたい気持ちを抱えているのと、大して変わらない感覚なのである。
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         <pubDate>Sun, 15 Feb 2009 11:56:49 +0900</pubDate>
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         <title>有機ELディスプレイ</title>
         <description><![CDATA[昨年末、<a href="http://www.sony.jp/products/Consumer/oel/" target="_blank">有機ELテレビ</a>がソニーより発売された。

テレビのディスプレイは画面の後から光を当てる事によって、画面を映し出している。今までは開発されてきたディスプレイは、ブラウン管にしろ液晶にしろ、画面の後に発光部位を置く必要があり、それがかなりの厚みをもたらしていた。

しかし、ホタルなどの発光生物の発光原理と同じ原理で発光するこのディスプレイは、リンク先の説明書きを見ればわかるが、発光部位をナノ単位の薄さに加工している。このことにより、今まではどちらかといえばディスプレイ＝機械という認識であったものが、ディスプレイ＝紙、ディスプレイ＝布といった発想の転換をすることができるようになったといえるのかもしれない。

この技術自体は数年前に既に実用化に向けて動き始めていた記憶がある（＞＞<a href="http://smokestings.seesaa.net/article/5647417.html" target="_blank">参照：筆者の個人ブログ記事 2005/8/5</a>）。やっと分かり易い形で一般人の目に触れるようになってきた感があるが、どうやら有機ELは、既に携帯電話ディスプレイとしては、使われていたようである。

ちなみに、<a href="http://aceart.seesaa.net/article/58043040.html">武蔵野美術大学基礎デザイン科2007年度入試の小論文では、テレビに関する出題があった</a>。

生徒に課題をやらせてみるとテレビの厚みに関しての話題を書こうとすることがあるのだが、既に有機ELのような薄型のディスプレイが実用化されていることを知らないまま、「未来」の薄型テレビを語ってしまうことも多い。

リンク先のブログ記事にも書いたのだが、美術業界に関わっていこうとする受験生は、テクノロジー関係の情報にアンテナを張っておくことをお勧めする。近代の美術史を学んでみればわかるだろうが、急速なテクノロジーの進歩に、近代の美術業界は今のところ、振り回されてばかりである。

美術の世界にもコンピューターが入り込んできているが、コンピューターという存在自体が、視覚ではなく、言語を基礎としていることをしっかり自覚して欲しい。言語を基礎としているものの中で、擬似的に視覚表現が実現されているだけなのである（もちろん、それだけでも、たいした進歩とは言えるのだが）。しかし、もっと「純視覚的な」デジタル的な表現手段を美術業界の側から提案するくらいの気概が欲しいと、個人的には思っているのだ。

未だに、コンピューターの画像は、左上から右下に読み込んでいる。これは、英文を読むのと同じ感覚の処理の仕方であり、視覚表現の「読み方」とは、全く異なっているという事実に、どれだけの人が気づいているだろうか？

美術業界をこれから目指そうとする学生には、その事実を「おかしい」と思う感性を養うような、勉強をして欲しいと思っている。
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">コラム</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 25 Jan 2008 22:48:41 +0900</pubDate>
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         <title>フラクタルアートコンテスト</title>
         <description><![CDATA[フラクタル図形とは、拡大縮小しても複雑度が変化せず、部分と全体の関係性を考えた時に、自己相似的（図の様々な部分を取り上げてみた時に、似ている部分から構成されている）な形をしている図形。自然界にも多く存在している。

この図形に関しては、<a href="http://aceart.seesaa.net/article/30254479.html" target="_blank">武蔵野美術大学　基礎デザイン科 2005年度入試</a>で出題されている。様々な「部分と全体」を考察させることによって、造形（その他）の「科学性」についての視点があるかどうかを判別させる課題である。

リンク先は英語だが、フラクタルアート画像のサムネイルで表示されているので、画像をクリックするだけで鑑賞が可能。

フラクタルアートコンテスト2007
<a href="http://www.fractalartcontests.com/2007/winners.php" target="_blank">http://www.fractalartcontests.com/2007/winners.php</a>]]></description>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">コラム</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 25 Jan 2008 11:34:30 +0900</pubDate>
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